「彼女の歌声は、もう聞けない」  その@


 静かだ。とても、静かだ。人の声はおろか、小鳥の鳴声さえも聞こえない。一瞬、世界には僕一人しかいないような錯覚に陥る。
 白い天井が見える。瞬きをすると、目の前が一瞬だけ暗くなる。僕は、それが面白くて何度も目を閉じたり開いたりした。
「‥‥」
 ふと、辺りを見回す。天井どころか、部屋全体が真っ白だった。畳十枚くらいの広さの部屋で、僕以外誰もいない。右を見ると窓がある。少し開いているらしく、窓を覆う白いカーテンの端がユラユラと揺れている。陽が出ているのだろう、窓からは薄黄色の光が漏れている。左にはどこかへ通じる扉がある。
 僕は今、パジャマみたいな白い服を着て、白いベッドに寝ている。何故、ここにいるのか思い出せない。それどころか、それ以前の記憶が抜け落ちたように無くなっていた。
「‥‥」
 ゆっくりと体を起こし、両足を床につける。ひんやりと、冷たい感触が広がる。僕は立ち上がり、足裏の感触を確かめるように、一歩一歩ゆっくりと扉の方へ向かった。
 ドアノブに手を掛け、扉を開ける。扉の向こうは長い長い廊下で、両端が見えないくらいに長かった。
 そこには誰もいなかった。所々に置かれている濃い緑色の観葉植物と、焦茶色の長椅子が、眠っているかのようにその場にたたずんでいる。光が届いていないせいだろうか、廊下は部屋の中よりも僅かに薄暗かった。
 体を左に向けて、歩きだす。ここは病院のようだ。白い壁に薄緑色の床。長い廊下に、長椅子。この風景はテレビなどで何度か見た事があった。でも、どうして僕がここにいるのか、相変わらず思い出せなかった。
「‥‥」
 いくつかの観葉植物と長椅子を通り過ぎた時、下の階へと続く階段を見つけた。階段は果暗く、果てが見えなかった。でも僕は、その果てが見たくなって手摺りを手を置きながら階段を降りていった。


 階段は途中で百八十度曲がっていて、そこを降りていくと広い部屋に出た。待合室か何かのようで、無数の長椅子が整然と置かれていた。そこに一人の女の子が腰掛けていた。
 桃色のパジャマを着て、漆黒の長い髪の毛を腰の辺りまでのばしている。裾や衿から出る手首や首はとても細く、強く掴んだだけで砕けてしまいそうだった。
「‥‥」
 彼女は僕に気づくと、驚いたようで目を丸くした。僕はゆっくりと彼女に近づき、彼女の隣に腰掛けた。彼女は逃げる事もせず、ただ黙って僕を見つめていた。
 僕は彼女の手にある物を見た。それは楽譜だった。何の楽譜だったのかは分からなかったが、音符の下に歌詞のついている楽譜だった。
 彼女は僕の視線に気づくと、慌てて楽譜を隠した。僕が彼女の顔を見ると、何故か彼女は悲しそうな顔をしていた。目を細め、口を真一文字に結び、今にも泣きだしそうな顔だった。
 僕は申し訳ない事をしてしまった思い、彼女の頭を撫でてあげた。年はよく分からなかったが、僕よりも背も低かったし体も細かったので、きっと僕よりも年下だろう、と思った。
 僕が頭を撫でると、彼女はゆっくりと目を閉じて、結ばれた口を僅かに開いてくれた。安心しているのだろう。僕も嬉しくなって、少しだけ笑った。
 声を出さずに、笑った。


 彼女と別れ、部屋に戻ると、一人の看護婦がいた。まだ若く、陽に照らされた顔が可愛い看護婦だった。看護婦は僕の姿を見ると、パアッと晴れやかな笑顔になり、僕に近づいてきた。
 そして、僕の背中をゆっくりと押し、僕をベッドに寝かせた。目の前には食事が置かれている。狐色に焼けたパンが一枚、トマトの入ったサラダにベーコンエッグ、そしてコップ一杯分のミルクだった。
 看護婦さんは終始笑顔のまま、その食事を指差す。僕はそれに誘われるようにコップを手に取って、一口飲んだ。冷たい感触が喉を伝い、胃が重くなったような気がした。
 僕はその看護婦さんに、何故僕がここにいるのか聞こうとした。でも、看護婦さんは僕が食事に手をつけたのを見ると、足早に部屋から出ていってしまった。まるで僕と話がしたくないかのようだった。僕は閉じられた扉をしばらく黙って見つめていたが、目の前のベーコンエッグが白い湯気を出しているのを見て、食事をする事にした。ベーコンエッグは僕の体全部を暖めてくれるかのように、とても温かかった。


 食事の内容、そしてカーテン越しに差し込む陽の光の強さで、今が朝である事を知った。
ならば、さっき廊下に出ても誰もいなかった事も納得出来る。きっと、あの時はまだ誰も起きていなかったのだ。でも、それならば、何故彼女はあそこにいたのだろう。一人で楽譜を持って、何をしていたのだろう。
 分からない。彼女に聞いてみない事には何も分からない。でも、彼女がどこにいるのかも分からないし、ここの患者なのかもはっきりしない。分からない事だらけだった。
 ふと、ドアに目をやる。ドアノブが勝手に動いている。僕は一瞬驚いたが、しばらくしてそのドアがゆっくりと開かれるのを見てホッと胸を撫で下ろした。誰かが向こう側からドアノブを持っていたのだ。
「‥‥‥」
 現れたのは彼女だった。手には相変わらず楽譜がある。彼女は顔だけをドアから覗かせ、室内を見渡す。そして、室内に僕だけしかいない事を確かめると、ゆっくりと室内に入り、音も無くドアをしめた。
 何故、彼女がここに来たのか、勿論僕は分からなかった。でも、僕を見る彼女の顔が、初めて会ったあの時よりも少しだけ柔らかくなっているのを見て、何だかそういう疑問はどうでもいいような気になってしまった。
 彼女はベッドの隣に置いてある小さな丸椅子に腰掛けた。長い黒髪が陽の光を浴びてほのかに茶色に染まり、カーテンが揺れると髪の毛の端もフワリと浮き上がった。
 僕が飽きずにそれを見ていると、不意に彼女が手にしていた楽譜を僕に渡してくれた。
僕はそれを受け取る。タイトルが無く、音符と歌詞だけが載っている。音符の並び方を見ると、それはピアノか何かの旋律だった。
「‥‥」
 彼女はニッコリと笑い、両手を出してピアノを弾く真似をした。そして、口をパクパクと開けて歌を口ずさむ。しかし、その口から歌声は出てこなかった。
「‥‥」
 彼女は口を聞く事が出来ない。
 僕はそう思った。だから、彼女はここに入院しているのだろう。外見はどこも怪我などしていない。歌を歌いすぎて喉が潰れてしまったのかもしれない。
 彼女は目を閉じて、ピアノの弾き真似を続ける。口も動いているが、相変わらず声は出ていない。僕は楽譜を毛布に置いて、小さく拍手をした。音が出ないようにゆっくり、小さく手を叩いた。彼女は目を開けると弾き真似をやめて、僕に向かって小さくお辞儀をした。恥ずかしそうに頬を朱色に染めてはにかんだ笑顔を見せているのに、その笑顔はどこか作り笑いっぽく見えた。
「‥‥」
 きっと、彼女にとって歌う事は人生の全てだったのだろう。今、僕の目の前にいる彼女は笑ってはいるけれど、痩せ細り、どこか儚げな風に見える。歌う事を奪われて悲しんで、だからこんななんだ、と思った。
 彼女は毛布の上に置かれた楽譜を再び手に取り、昔を懐かしむような、遠い眼差しで楽譜を見つめる。僕はそんな彼女にかける言葉が見つからず、どうしていいのか分からなかった。彼女が再び歌えるようになるかなんて分からないし、その楽譜にどんな思い入れがあるのかも分からない。何と言えば彼女が笑ってくれるのか、僕には見当もつかなかった。
「‥‥」
 楽譜から目を離した彼女の顔には、もう遠い眼差しの様子は見られなかった。僕はどこか安心して、彼女に笑顔を送った。


 外に出て、病院裏にある庭園を彼女と歩く。庭園は広く、出入口の前に大きな花壇があり、それを囲むようにいくつかのベンチがあり、更にその周りを無数の木が円を描くように立っている。他には誰もいなかった。老人や看護婦どころか、鳥一匹見当らなかった。
 僕と彼女は出入口に一番遠い所にあるベンチに腰掛けた。病院の敷地内なので、服装は二人共パジャマのままだった。季節はよく分からないが、降り注ぐ陽光は柔らかく、そよぐ風は心地好かった。
 相変わらず、僕の記憶は戻っていない。なのに、僕はこの風景を昔に見たような気がしていた。そして、隣に彼女が座っている、この構図も前に何度か見た気がする。確か、その時も彼女は楽譜を持っていたと思う。
 彼女は僕の肩に頬をすり寄せるような格好で座っている。周りの景色を見て、時たま楽譜に目を落としては小さなため息をつく。彼女が隣にいる事にどこか懐かしささえ感じるのに、どうして彼女がため息をつくのかは思い出せない。彼女が喋れなかったのかどうかも不明瞭だった。でも、彼女は決して喋ろうとしない。だから、僕もそんな彼女に語りかけるのはやめようと思った。
「‥‥」
 彼女が楽譜を膝の上に置き、僕の左腕に手を添えた。そして、ゆっくりと袖口をめくる。そこには見覚えの無い傷があった。手首に刻まれた無数の切傷。カッターか何かを走らせたかのような跡がついていた。
 僕はそれをまるで他人の腕でも見るかのような感じで見ていた。その傷も、まったく記憶に無かった。でも、その傷は確かに僕の左手首に刻まれていて、彼女の細い指がその傷を優しく触れると、くすぐったいような感覚を覚えた。
 彼女が少し哀しげな顔で僕を見上げる。風にそよぐ黒髪から、僅かなシャンプーの香りが漂ってくる。僕は何故彼女がそんな顔をするのか分からず、ただその顔を見たくないから、笑ってみせた。でも、彼女の顔は曇ったままだった。
 二人しかいない世界の中で、僕と彼女は何度も視線を交わす。深く、底の無い黒い瞳の中にいる僕は、笑っていると思ったのに少し沈んだような顔をしていた。僕は鏡を見るかのように、彼女の前で無理にでも笑顔を作ろうとする。でも、どうしても黒い瞳の中の僕は笑ってくれなかった。
「‥‥」
 彼女が両手を僕の胸に回し、強く抱き締める。離すまい、と強く、強く。でも、何故突然そんな事をするのか分からなかった。でも、その抱擁はとても温かくて、とても心地好かった。


 陽が暮れ、夜が降りてくる。太陽が沈んでいき、代わりに藍色の空が落ちてくる。僕は彼女と一緒に朱色から紺色に染まっていく空を見つめていた。
 僕と彼女は病院の中に戻った。でも、彼女は自分の病室には行かず、ずっと僕の後についてきて、結局、僕の病室までついてきた。
 この部屋には時計が無い為、今が何時なのか、正確な時間は分からない。でも、具体的な時間など知る必要が無かったし、心のどこかで知りたくないとさえ思っていた。
 二人でじっと窓の外を見ていると、扉が開いて朝見た看護婦さんが入ってきた。手に二人分の料理を器用に持っている。看護婦さんは怪しげな笑みを浮かべたまま僕と彼女に近づき、それぞれにトレイを手渡した。料理は青野菜のサラダにソースのかかった揚げ物が二つ、そして一膳のご飯だった。
 看護婦さんは料理を手渡すと、そそくさと部屋を後にした。僕はその意味が分からなかったが、彼女は分かっているらしく、少し頬を染めていた。
 静かに食事を始める。昔は、食事の時や女の子と一緒にいる時は話を絶やしてはいけない、と思っていた気がした。でも、彼女と一緒にいる時はそうは思わなかった。無言であっても、一緒にいるだけで幸福感を得られた。それが具体的にどんな幸福なのかは分からなかったが、一緒にいると落ち着けて、嫌な事も何もかも分かち合えるような気がする。彼女もそう思っているのは知らない。でも、そう感じていて欲しい。
 食事を終える。僕も彼女も、少しご飯を残した。彼女は膳を僕に渡そうとするが、僕もお腹がいっぱいで破顔しながら首を横に振った。
 トレイをドアの近くに置いて、再び窓に目を向ける。空は完全に紺色になり、いくかの星々と丸い月が蒼い海に浮かんでいる。
 彼女は僕の近くに寄り、毛布の中に入ってきた。ベッドは大きくて、僕と彼女が入ってもまだ余裕があった。
「‥‥」
 何をするでもなく、ただ二人して空を見つめる。時間が、とてもゆっくりと流れていく気がする。僕の胸に頬をすり寄せる彼女から、トクントクンと心臓の鼓動を感じる。弱々しいけれど、はっきりと感じる鼓動。僕はそんな彼女がいとおしくなって、強く抱き締める。
 前にもこんな温もりを感じた事がある。それは、綺麗な音楽が流れていた時だった。美しいピアノの旋律が脳裏をかすめ、そして彼女の温もりを思い出す。その暖かさは今も昔も変わっていない。
 僕は以前、彼女に会ったのだろうか? それが思い出せない。温もりは思い出すのに、出会いの記憶は浮かんでこない。彼女に聞けばいいのだろうか? そうすれば分かるのだろうか? でも、彼女は喋る事が出来ない。例え僕がそれを訊ねたとして、彼女は何と答えるのだろうか? 紙にでも書いてくれるのだろうか? 
「‥‥」
 彼女を見る。彼女はじっと僕を見つめていた。潤んだ瞳で、僕から目を離さない。その目を見ると僕は彼女に何も問えなかった。訊ねられ、少し迷ってどこからか紙とペンを持ってきて何かを書く彼女。それはとても不憫で可哀相な光景だ。僕はそんな光景を見たくない。
「‥‥」
 彼女の黒い髪に手を通す。触れただけで消えて流れていってしまいそうな細い髪の毛は、音も無く僕の指に絡み付いた。そのまま、彼女の後頭部に手をやり、彼女の顔を近づけさせ、口付けをした。彼女は何の抵抗も無く、僕の口付けに応じてくれた。柔らかく、青い果実のような瑞々しい感触が伝わる。
「‥‥」
 この感触にも覚えがある。遠い昔、いや、もしかしたらついこの前、これと同じ柔らかさに触れた気がする。相手は間違いなく彼女だ。僕はきっと、昔から彼女と会って、こうして唇を交わし合っていたのだ。でも、それがいつ、どんな時だったのか思い出せない。その時、僕はどんな顔で、彼女はどんな顔でお互いを見ていたのか。どんな気持ちでこうしたのか思い出せない。
 でも、今はそんな事はどうでもいい。今はただ、この甘く心地よい感覚に身を浸していたかった。


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